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2008年07月07日

「知識より体得を重視する」  

稲盛塾長の講話より(NO.5)
「知識より体得を重視する」  

 「知っている」ということと「できる」ということはまったく別です。たとえば、セラミックを焼成するときの収縮率の予測一つをとってみても、この事実はよくわかります。文献などで得た知識に基づいて、同じ条件で焼成を行なったつもりでも、実際に得られる結果はその都度違ってくるということがよくあります。本の上での知識や理屈と実際に起こる現象とは違うのです。経験に裏打ちされた、つまり体得したことによってしか本物を得ることはできません。このことは営業部門であれ、管理部門であれ、全く同じで、こうしたベースがあってこそ、はじめて知識や理論が生きてくるのです。
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 たとえば、8種類のセラミック原料をある比率で混ぜ、均一に混ざるよう撹拌する装置を使います。そして形を作り、高温の炉で焼けばセラミックができると文献でも本でも書いてあります。かといって、その通りの原料を何種類か買い、その通りの比率で混ぜ、形を作り、その通りの温度で焼いても、文献通りのものはできません。それは何種類かの粉をある比率で混ぜるとき、どこまで混ぜるのかによって違ってくるからなのです。
 今度は混ざり方だけではなくて、形を作るときにも違いが出てきます。ただ粉を混ぜて形を作って、中に気孔が入ったボソボソのものができあがってしまったのでは、最初に自分が期待したような性質のものはできません。しかし文献にはどのくらいの圧力で、どのくらいの結合力で形を作ればいいのかということは書いていません。
 また、何度で焼けばいいとは書いてありますが、いきなりその温度の炉に入れればパーンと割れてしまって粉々になってしまいます。ですが、どういう温度でゆっくり上げていくのか、どの角度で上げていくのかという問題は本には書いていません。それらは全て自分の経験でやっていかなければならないわけです。

 経営者の皆さんも自分の専門ではない分野にまで入っていかれるときに技術屋を使われる事と思います。その技術者が言う話を、知識として言っているのか、実験をし体験をして言っているのか、分けて聞かなければならないのです。たとえば、最初にセラミックというものがあって、そのセラミックを使ってあるものを作っていこうとするときに、元々のセラミックの作り方もわかっていない、作ったこともない、理屈だけしか知らないのに、その上にあるものを作って行こうとするなんて、いくら実験してみてもうまくいくはずがありません。「知っている」ことと「できる」ことは違うのです。
 学問が進んでいますから、みんな頭でっかちになっています。そして本人自身も、その理屈だけで、あたかもできるかの如く錯覚をしているわけです。ですから、そういう若者達には実践を通じて、「それを裏打ちしてみい」と言うことが必要です。「ウチの会社に来たなら、おまえがそうすれば売れると思うなら、おまえに車を1台貸してやる。売ってみい。そしてそれを証明してみい」 そうやって若者に頭をぶつけさせ、自分で体得したものを彼に作らせる。そうすれば、理論があるだけに鬼に金棒になっていきます。
 これはコンサルタントの場合もそうです。有名なコンサルタントを雇って指導を受ける場合には、その人に実績があるかどうかを見なければなりません。皆さんは理屈を知らないだけで、実践している皆さんのほうが遙かに偉いんです。ですから、理屈ばかりこねまわすようなコンサルタントにお金を払い、教えてもらうことぐらいバカらしい事はないと思います。
 話を聞くなら、実績のある人です。自分でやり、自分の身体でわかっている人の話を聞くのならいいんですが、理屈だけの話には何の値打ちもありません。

2008年07月06日

「バランスのとれた人間性を備える」  

稲盛塾長の講話より

「バランスのとれた人間性を備える」  

 バランスのとれた人間とは、何事に対しても常に「なぜ」という疑問を持ち、これを論理的に徹底して追求し、解明していく合理的な姿勢と、誰からも親しまれる円満な人間性をあわせもった人のことをいいます。いくら分析力に優れ合理的な行動を貫くスマートさを備えていても、それだけではまわりの人々の協力を得ることはできないでしょうし、逆にみんなからいい人だと言われるだけでは、仕事を確実に進めていくことはできません。
 私達がすばらしい仕事をしていくためには、科学者としての合理性とともに「この人のためなら」と思わせるような人徳を兼ね備えていなければなりません。
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 ここでは、科学的な合理性と豊かな人間性を持ち、そのどちらにも偏らないバランスが必要であるという意味で、「バランスのとれた人間性を備える」と言っています。
 先ほども言いましたように、私自身、化学が専門で、セラミックの研究開発からスタートしたものですから、どうしても科学的、合理的に物事を判断する、考え方や物事の進め方が身に付いています。ところが、学生時代ガリ勉だった私に、友人が遊びというものを通じて人間のあるべき姿の一端を垣間見せてくれ、教えてくれました。つまり、あくまでも科学的、合理的な考え方をしなければいけませんけれども、一方では非常に人間味のある、豊かな人間性を持っていなければならない。その両方を併せ持つことが経営者として必要だと、ここで言いたかったのです。

 昔、営業の連中が営業から帰って来て報告をするなかで「いや、これは難しいんですわ。訳がわからんのです」と感情的な説明をする者がいると、私はこっぴどく怒ったものです。
 私は皆さんに精神訓話をしますが、会社の経営、または研究、営業、会社の事業のなかで「不可思議なことだ」ということは一切口に出させないのです。我々がやっている研究、技術開発、営業、財務、総務の問題は全部合理的に、すべて理屈で証明できるはずです。また証明できるようでなければ話になりません。そこへ不可思議な話みたいなものを持ち込んでくるのは、とんでもない事です。ですから、昔はよく会議のなかで「バカなことを言い出すな、全部科学的に割り切れるはずだ」と怒ったものです。
 私の場合には、会社で仕事をし、研究する世界ではとことん合理主義なんです。絶対に不可思議なことは許しません。しかし、会社を離れると、まったく訳のわからない仏教の世界でも信じられます。ところがみんな、それをごっちゃにするのです。仏教の世界に没頭するような、形而上学的、宗教的なものに入っていくと、今度はその話を経営の場で披瀝する経営者、またはその様なコンサルタントなどもいます。
 訳のわからないことを経営の場に持ち込んだり、研究の場に持ち込んだりすることは一切してはなりません。我々が仕事をしているビジネスの世界、研究の世界、技術の世界は、全部科学的に証明できるはずです。一貫していなければなりません。しかし、仕事を離れたときの人間としては、不可思議なことがいくらあってもおかしくないのです。
 仕事の現場では徹底した合理主義者で、かつ素晴らしいロマンチストであり、素晴らしい形而上学的なことも考えられる人、その両面のバランスがとれた人間性を持っていなければ、一流の経営者にはなれません。

2008年07月05日

「私心のない判断を行なう」 

稲盛塾長の講話より
「私心のない判断を行なう」 

 何かを決めようとするときに、少しでも私心が入れば判断はくもり、その結果は間違った方向へいってしまいます。人はとかく、自分の利益となる方に偏った考え方をしてしまいがちです。みんなが互いに相手への思いやりを忘れ、「私」というものを真っ先に出していくと、周囲の協力も得られず、仕事がスムーズに進んでいきません。また、そうした考え方は集団のモラルを低下させ、活動能力を鈍らせることになります。
 私たちは日常の仕事にあたって、自分さえよければという利己心を抑え、人間として正しいか、私心をさしはさんではいないか、と常に自問自答しながらものごとを判断していかなければなりません。
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 極端に言いますと、自分を無視して物事を考える。もっと極端に言いますと、自分というものを犠牲にして物事を考える、これが、私が使っている「私心のない判断を行なう」という意味です。自分に都合のいい、自分に利益があるような結論、判断はせずに、客観的に正しいことを正しく判断する。それが物事を成功させていくためにはたいへん大事なことなのです。ところが、人間は肉体を持っていますから、ものを考えるときには必ずといっていいくらい、私心、自分というものが入ってきます。
 たとえば物事を考える場合、何かことが起こることによって直感的に物事を考えて判断をします。その場合には、本能という領域で判断したものが出てくるわけです。本能の領域は、私心、自分のことだけを考えています。ですから、どうしても自分に都合のいい話にならざるを得ないのです。
 物事を判断するときには、自分自身を無視して考えるようにしなければなりません。事業経営者ですから本当は自分のことを一番に考えなければならないのですが、考えるときには自分のこと・会社のことは一度棚に上げてから考えてみる、それは非常に大事なことです。思わぬ解が見付かります。
 今まで解けなかった問題、相手と絡まり合ってほどけなかった問題が、自分というものを除いて考えたときに、スパッと解けるときがあります。決してそれは自分が損をするのではなくて、相手も喜び、自分も喜ぶという解が見付かるケースはたくさんあります。
 では、具体的にはどうすればいいのか。物事というのは何か起ったときにその瞬間・瞬間に考えるのが普通です。そういうふうにパッと考えるときに、「ちょっと待てよ」と一度深呼吸をしてみるのです。大きな問題になりそうだと思ったときは、「ちょっと待てよ。塾長が“自分を無視して、一度考えてみい”と言っていたな」と一度間を置いてから、自分に都合がいいようにというものを除けて、他人事と思って考えるようにするわけです。自分、相手、もうひとり、三つ巴で問題が起っているとすれば、自分ではなくて、第三者として考えてみる。その時にどうなるか。それが自分というものを無視して考えるという意味です。

2008年07月04日

「本音でぶつかれ」 

稲盛塾長の講話
「本音でぶつかれ」 

  責任をもって仕事をやり遂げていくためには、仕事に関係している人々が、お互いに気付いた欠点や問題点を遠慮なく指摘しあうことが必要です。ものごとを「なあなあ」で済まさずに、絶えず「何が正しいか」に基づいて本音で真剣に議論していかなければなりません。欠点や問題に気付いていながら、嫌われるのをおそれるあまり、それらを指摘せずに和を保とうとするのは大きな間違いです。
 ときには口角泡を飛ばしてでも、勇気をもってお互いの考えをぶつけあっていくことが大切です。こうした中から、本当の意味でお互いの信頼関係も生まれ、より良い仕事ができるようになるのです。
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 仕事をしていますと、いろんな問題が出てきます。その問題を解決していこうと思えば、本当は本音で議論しなければならないのに、そういうことを上司に言ったのでは角が立つし、人間関係が崩れるのではないかと思って、どうしても建前で話をしてしまいます。それは世渡りをしていく術のひとつではあるのですが、企業のなかで本当に仕事をしていこうと思えば、建前やら通りいっぺんの常識論で仕事ができるわけがありません。本音でぶつかり、指摘し合うことがたいへん大事なのです。
 では、みんな本音でぶつかっているのかといいますと、やってはいません。建前で仕事が進んでいるのが大半です。それはつまり、今までやってきた通常のルール、今までやった通りの手法、方法でやればいいではないか、というものです。通常のことを通常のようにやっている仕事が、一般の企業では大半を占めます。そういうところでは社交術、世慣れたお付き合いだけができればいいわけです。
 たとえば大企業の場合でも、付き合い上手、そしてある程度のオベンチャラを言い、ゴマをすって、建前のきれい事を言っていれば立身出世もしていきます。しかし我々のような中小企業では、毎日毎日が修羅場です。その中で本当に仕事をしようと思えば、本音をぶつけ合わなければ仕事になるわけがないのです。それでも、なかなかできるものではありません。
 たとえば、社内で何か問題が起るとします。不正とまでは言わないにしても、少しおかしいと思うような問題が起きる。その問題に同僚が気が付いても、上司に「誰々の挙動がおかしいんです」と言えば告げ口になってしまう、ええ格好をしようと思って告げ口をしたと思われてはたいへんだからと、おかしいと思いながらも見て見ないふりをする。こういうことは一般の企業にもあるはずです。ですから、相当問題がこじれて大きくならなければトップまで伝わってこないのです。このように「“人間として何が正しいのか”を根幹に置き、そして本音でぶつかっていくのが我々のフィロソフィです」と言い、みんなも「わかった。それでいきましょう」と了解していながら、その局面になるとできなくなるわけです。
 
 本音をぶつけ、口角泡を飛ばしてでも真実を求めて、みんなで議論することは必要です。ただし、本音には条件があるのです。必ず建設的でポジティブな話をしなければなりません。建設的とは、みんなのために善かれという本音でなければなりません。ネガティブなもので、相手を中傷したり、足を引っ張ったりする、相手をダメにするための本音は、たとえそれが真実であっても御法度です。
 建設的でポジティブな議論は、必ずといっていいくらい創造的で建設的な結論に導かれていきます。「こうだと思います」「それはそうや。おまえの言う通りや」とやっていくうちに、建設的で進歩的、創造的な結論に、必ず到達していくはずです。

2008年07月03日

「土俵の真ん中で相撲をとる」 

「土俵の真ん中で相撲をとる」 

「土俵の真ん中で相撲をとる」とは、常に土俵の真ん中を土俵際だと思って、一歩も引けないという気持ちで仕事にあたるということです。納期というものを例にとると、お客さまの納期に合わせて製品を完成させると考えるのではなく、納期の何日も前に完成日を設定し、これを土俵際と考えて渾身の力をふり絞ってその期日を守ろうとすることです。そうすれば、万一予期しないトラブルが発生しても、まだ土俵際までには余裕があるため、十分な対応が可能となり、お客さまに迷惑をおかけすることはありません。
 このように、私達は常に安全弁をおきながら、確実に仕事を進めていく必要があります。
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 このことに気が付いたのは、私が事業を始めた頃でした。中小零細企業で仕事をしていく中で、売掛金の回収が遅れ、手形決済の期日が来て、金が詰まってきたとします。どうしても金策をつけなければならず、夜中に友人のところに飛んで行って金策をする。あるいは銀行に走ったり、いろんな所に走りまわっているわけです。そういう人をよく見たものです。
 そういう人は、ギリギリになってから一生懸命に走りまわって、そしてやっと手形が落ちたら、「よかった。うまくいきましたわ」と、何か大きなひと仕事をしたような感じになっておられます。しかし、手形が落ちて元々で、落ちなければ倒産する。ただ潰れるのが潰れなかっただけのことですから、いいことをしたのでも何でもないのです。なのに、必死で夜通し駆けずり回って、ひと仕事したような、あたかも一端の事業家みたいな顔をしておられる。
 手形が落ちる日は前からわかっているし、その何日も前にお金の準備をしなければならないことはわかっているのに、何でギリギリになってから走りまわるのか。またそういう人に限って、必ず言い訳みたいな言葉がいっぱい付いてまわります。本当におかしな事です。金策だけでなく、納期の問題でも同じ事です。

 例えば相撲を見ている時、ズルズルッと土俵際まで後退してしまって、仕方がないからうっちゃりを打つ。そうすると必ず行司が判定に迷って軍配を上げ、物言いが付いて、判定が崩れたりする。そういう場面を見て、皆さん、思いませんか?「土俵際に追い込まれてからうっちゃるという大技がかけられるぐらいなら、真ん中で大技をかけなさい」と。
 土俵の真ん中で相撲をとるということは、つまり「余裕のあるときに」ということなのです。業績が悪くなってきて、本業以外に何かやらなければならなくなってきたけれど、そのときには資金力も相当減り、体力も弱ってきています。そうなってから、何か手を打とうとするのではなくて、体力のあるときに手を出しなさい。順調にいっているときには安心して何もしないで、悪くなってから手を打とうとするからますます悪くなるのです。
 いいとき、絶好調のときに、そういう技をかけようと思うならかける。これが土俵の真ん中で相撲をとるという意味なのです。

 これはちょっと、「ええ格好をしすぎはせんか」と皆さんから怒られるかもしれませんが、私は小学校に入ったときは両親がビックリするぐらい成績がよくて、ウチの子は大したもんだと喜んでいたらしいのです。しかし長ずるに及んで学校が面白くなり、友達が増えてきて逆にガキ大将になって、小学校を卒業する頃には、今で言うとオール3という成績になっていました。昔は甲乙丙丁と言いましたが、甲はひとつもなくて全部乙。それでも鹿児島一中という一流の中学校に行こうと思ったのです。先生から「甲が一個もないよう者が受かるわけがない」と言われても、「どうしても行きたい」と言い張って受験をして、案の定すべったわけです。もちろん内申書も悪くて、「非常に素行が悪い」と書いてありますから、受からないのは当たり前です。
 その後、他の中学に入るのですが、それでもやっぱり遊びがいい。旧制中学1年、2年のときは、派手なケンカをよくやりました。そういうことばかりしていますから、もちろん勉強はしていません。

 勉強をしようと思ったのは、新制高校に変わり、高校1年生になってからでした。一緒に勉強をしている仲間が、『蛍雪時代』という本を見ておりました。「何だろう?」と思い、その本を借りて読んでみたら、目から鱗が落ちたのです。
 それまではケンカが強いとか、野球のピッチャーでうまい事が私を支えていたプライドだったのですが、学校の成績が悪いことは非常にみっともないことだと初めて気が付きました。
 正直、勉強をし始めたのは高校2年生の半ばぐらいでした。「これはしまった」と思い、もう一度中学1年生の勉強から、物理、化学、数学、全部やり直して受験に備えていったのですが、優秀な頭脳を持っているわけではありませんから、努力でカバーする以外にはなかったのです。
 普通は、みんな大学までは勉強をして、大学に入ったら遊ぶと言いますけれども、私の場合には中学、高校で勉強していなかったこと、知的なものに飢えていたこと、また遊ぶお金がなかったせいもあって、ガリガリ亡者みたいに勉強をしていました。

 大学で試験の時には試験の1~2週間前には全部何回も復習をして、どこから問題が出ても100点満点取れるぐらいに勉強していました。皆さんも記憶にあると思いますが、勉強というものは大体うまくいきません。それは友達からの誘いがあったりしてつい付き合ってしまい「予習せんならん、復習せんならん」と思いながらもギリギリまで来てしまうわけです。
 やりたい、やりたいと思いながらも勉強ができないまま、ついに試験場に行く。「ああ、3分の2くらいしか調べられんかったな。もっと調べてくればよかったけど、時間がなかった。あそこが出なきゃいいのにな」と思って試験を受けると、案の定、そこが出ている。「シマッタ」という経験が、真面目でちょっと勉強したタイプの人には必ずあります。
 私はそれが非常にイヤなのです。高校の時、恥ずかしいと思って勉強を始めだした頃にそういうことを何回も経験していますから、そのくらい悔しい思いをするなら、うんと前に終わるように計画をすれば、どんな問題があっても試験までには全部調べ終わる。そこまでの余裕をみたスケジュールで勉強すべきだと思って、大学時代、試験勉強をする時は試験の10日ぐらい前には全部調べ終わるというスケジュールを自分で作っていました。
 そういうふうに、試験日が決まっているのであれば何が起っても、その間、空白の時間になっても、それに備えられるぐらいの余裕を持つ。つまり、土俵の真ん中で相撲をとるということです。その様に学生時代に余裕を持って勉強してきたものですから、手形が落ちる落ちないと言って飛びまわっている人を見ては、「ああ、この人では会社を潰すわ」と思ったものです。自分が手形の決済日を出しているのですから、手形を切ったときからわかっているはずなのです。

「自らを追い込む」 

稲盛塾長の講話から
「自らを追い込む」 

 困難な状況に遭遇しても、決してそこから逃げてはいけません。追い込まれ、もがき苦しんでいる中で、「何としても」という切迫感があると、普段見過ごしていた現象にもハッと気づき、解決の糸口がみつけられるものです。火事場の馬鹿力という言葉があるように、切羽詰まった状況の中で、真摯な態度で物事にぶつかっていくことによって、人はふだんでは考えられないような力を発揮することができます。人間はえてして易きに流れてしまいがちですが、常にこれ以上後に退けないという精神状態に自らを追い込んでいくことによって、自分でも驚くような成果を生み出すことができるのです。
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 私は研究を始めた頃、こういうことがありました。
 連日徹夜をして実験をしているけれど、なかなかいい結果が出ない。苦しみ、もがきながら、さらに研究を続け、切羽詰まった状況がずっと続いている時、ある瞬間にポッと自然に戻ったような気がするのです。非常にテンションがかかって研究をやっているのですが、そのテンションがホッと抜ける。そういうときにパッと閃くわけです。そのヒントでもって実験をすると成功するというそんな事がありました。
 地方大学を出て、京都の松風工業というセラミックの会社に入り、そこでファインセラミックス分野の研究を始めたのですが、私はその分野の優秀な技術屋ではありませんでした。石油化学、合成樹脂といった有機合成の分野が好きで、大学時代もそちらに焦点を絞って勉強をしてきましたし、また卒業論文も有機化学分野のものでまとめようとしておりました。それが、どこにも就職がなく、やっと無機化学、窯業の世界への就職が決まったものですから、卒業間際になってから、卒業論文をセラミックの分野に変えて、泥縄でやってきたわけです。もちろん、大学4年間のなかでは無機化学、窯業の分野の勉強もし、単位も取っておりましたから、必ずしも無知だったわけではありませんが、私には興味の薄い分野でした。
 
 研究に打ち込んでいく中で、私は新しい焼き物の合成に成功しました。それは、GE(ゼネラル・エレクトリック)の研究機関ですでに開発されていたもので、それからちょうど1年遅れでの開発でした。それが松風工業の主力製品になっていきましたし、私が京セラをつくったときの主力製品も、そのファインセラミックでした。
 日本の地方大学を出て、しかも特別専門的に勉強しているわけでもない私が、そういう新しい材料の合成を成功させるのは非常に珍しい事でした。しかしそういうものができていったのは、「何としてもこの研究をものにしよう」と思って自らを追い込んで、狂気の世界にまで自分を追い込んで、没頭した中でヒントが出てきたからだと思います。
 京セラフィロソフィの中には「自らを追い込んで限界までいった時に神の啓示がある」という表現をした物があります。パッと閃いた時、それは神様が「これだけコイツが頑張っているなら何とか助けてあげたい」思い、教えてくれたからだと喩えてもいいのではないかと思います。

 ちょっと脱線しますが、やっと就職が決まって、有機化学分野から急遽、無機化学の卒論に変えた方がいいと言われて、無機化学の先生の所に行ったのですが、その先生は大変人柄がよくて、お酒好きで夜中学生達と飲むという天真爛漫、素晴らしい先生で、学生からもとても慕われていました。
 京セラをつくり必死でやっていたある時、母校を訪ねたことがありました。私はカリカリになって研究をし、仕事もし、会社経営もやっているというのが顔に出ていたのでしょう。先生から「稲盛さん、そんなにキリキリとやっておったのでは身体が保ちませんよ。やはり人間、余裕がなければいいアイデアは出ません。そんなに思い詰めていてはいけません」と言われました。
 「先生、そんなもんじゃないんです。まさに素晴らしいアイデア、素晴らしい閃きは、自分を追い込んで、ギリギリのところで研究をしているときにしか出てこないんですよ。余裕がある時に出たアイデアは思い付きであって、そんな思い付き程度では仕事なんてうまくいきません。ましてや最先端の研究をするのに、思い付き程度では立派な研究なんかできるわけはないんです」と若い頃、非常に人柄のいい先生に、そう言って食ってかかったことがありました。

 「自らを追い込む」というなかには、もうひとつあります。よく火事場の馬鹿力と言いますが、精神が集中したときには、肉体的、物理的な力まで巨大なものが出ることがあります。火事場の馬鹿力は、それを証明しているわけです。
 また、催眠術も同じ事で、「催眠」という形で精神を統一させられ、神経が集中した瞬間、本当にすごい力を発揮するということがあります。このように自らを追い込んでいくことによって、想像もつかないような物理的な力まで発揮でき、精神的な閃きも得られると同時に、想像もできないようなことができるわけです。

 そういう意味で、私は自分で自分を追い込んで、それに熱中する、没頭するということをやってきたわけですが、そこには、さらにもうひとつの効果があります。精一杯自分を追い込むと、その「精一杯やった」「これ以上やれない」という安心感が自分にありますから、あとは天命を待とうとするのです。
 ちょっとヘンかもしれませんが、私の場合には「精一杯やった。あとは天命を待とう。これで潰れるならしようがない」と思うのです。
 それは非常に大事なことで、普通、みんな中途半端にやっていて最悪の状態に落ち込んでいくものですから、精神的に非常に苦労をするのです。たとえば、もう潰れそうだ、金策がつかない、手形が落ちない。「ああ、あのときにやっておけばよかった」と心労を煩わせてしまうわけです。そうなると健康まで害してしまい、場合によっては命まで落としてしまうこともあるのです。
 しかし一生懸命にやって、あとは「ここまでやったんだから」と天命を待つ。その安心立命ができるぐらいにまで、自分を追い込んでやるということがたいへん大事なのです。

2008年07月02日

前線の指揮、後方の指揮、機を見て応変に

稲盛塾長の講話から

前線の指揮、後方の指揮、機を見て応変に
 「率先垂範する」とは、部下を従えて、先頭を切って仕事をしなさいということです。先頭を切って、自分が先頭に立って仕事をしなければなりません。
 これはリーダー論になりますが、リーダーというのは、率先垂範しなければならないと思っています。ですから、先頭を切って自分で仕事をし、その後ろ姿で部下を教育する、教えるのが正しいことだと思って、私は最初から仕事をしてきました。ところが、リーダーが先頭を切って仕事をするのは本当に正しいんだろうかという考え方も一般にはあります。

 では、トップはどこにいるのが正しいのか。私は中小零細で会社を始めた当時からそれが問題であり、疑問でした。

 リーダー論の本を読みますと、トップ、つまり社長は最前線に出ることも大事かもしれないが、それによって大局を見誤ってはならないということがよく出てきます。経理の問題、教育の問題、人事の問題、総務の問題、または技術の問題、工場の問題、そういうものを広く見渡して、すべてに的確に指示を与えていかなければならないのが社長ですから、そのためには全体が見渡せるような高い丘の上にのぼり、そこから全軍の指揮を打つのが正しいはずだということが、一般のリーダー論のなかにあります。また、そういうリーダー論を読んで、そういうことをやっておられる社長さんはたくさんおられますが、私はどうもそうではないように思うんです。

 一線の営業マンと苦楽を共にする。たとえば、戦争映画では、最前線で塹壕を掘って、土砂降りの雨のなか、そこに這いつくばり、敵から打ち込まれてくる銃弾のなかを必死で防戦している。たしかに、最前線の塹壕のなかで泥水をすすりながら兵を励まし、ともすれば崩れそうな自分の陣地を叱咤激励をし、最前線に踏み止まっている部隊長、大将は素晴らしいという評価もあると同時に、そういう考えなしでやっているものだから、その局面は守れたかもしれないが、一方の右翼、左翼の陣が打ち破られて、結局は敗走に継ぐ敗走をして全滅してしまったではないか。あの考えなしの部隊長が格好よく最前線に行き、一部の兵に素晴らしい部隊長だと誉められて、それに酔ってしまっているものだから大局を見失ってしまって、わが部隊は全滅したという
非難を受ける例もあるのです。
 かといって、最前線では凄惨を極め、互いに弾薬が切れて白兵戦になり、敵味方入り乱れて銃剣で血だるまになって戦っているという悲惨な状況も知らないで、後方の丘の上に陣取り、悠々と戦況を見ている。だから、いくら戦況の報告があっても、その緊迫感が伝わらないために戦局を誤る司令官の例もあります。後方にいて見ていたらいいのか、前線に行ったらいいのか。

 私は、どちらも真理なんだと思います。後ろにいて全軍を見渡して指揮を打つのも真理です。最前線で兵と苦楽を共にし、死線をさまよいながら、みんなを叱咤激励するのも真理です。ですから、どちらかに偏っていてはいけないのだということだけはわかりました。
 前線だけで働いていたのでは戦局を誤ってしまいますから、前線で兵を叱咤激励し、みんなと一緒に苦労しながら、取って返して後方に行き、全体を見渡して仕事をする。臨機応変に行ったり来たりすることが必要です。しかし一番大事なことは、やはり、社員の先頭を切って自分が仕事をするという勇気です。私はそう思ったので、率先垂範するということを言っているのです。

 この率先垂範は社長だけの問題ではありません。営業を任せている部長、課長もそうでなければなりません。工場でモノを作っている課長もそうです。人をアゴで動かすだけが能ではないはずです。自分自身で自分の手を染めてやっていくような人でなければなりません。そういう意味でございます。

2008年07月01日

渦の中心になる者こそリーダー

稲盛塾長の講話から

先輩後輩関係なし。渦の中心になる者こそリーダー
 たとえば、社内において「新製品が開発されたので、その販売計画をたてなければならない」とか、「我が社の社員の質を高めるために、社員教育を行おうではないか」という課題、様々なテーマは四六時中、出てきます。
 そういうテーマが出てくると必ず、「みんな、定時後にちょっと集まってくれ。社長がこの前から、社員教育をやって社員の質を高めようと言っておられるので、そのことについて話をしようと思う」と言い出す社員がいます。それは中堅社員とは限りません。なかには自分の先輩までを集めて、そういうことを言い出し、渦の中心になる社員がいます。
 つまり、会社の中のいろんなところで仕事の渦が巻いている状態、それが活力のある、活気のある会社だと思います。そして、そのなかで自分が中心になって取り仕切っていくような、そういうに渦の中心にいなさい。これが「渦の中心になれ」ということなんです。

 渦の中心で、周囲を動かす為には、問題意識がなければなりません。命令で動かすのではないのです。問題意識があって、その問題を周囲に提供することによって、周囲を動かせるんです

自己紹介

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所属:USAC SYSTEM Co.,Ltd.
役職:SI事業部 部長
誕生:昭和37年
        天秤座 B型
育ち:大阪 十三出身
現在:奈良県大和高田市
特技:剣道初段
        アマチュアボクシング
        フルマラソン4:30の体力
座右の銘:我以外皆我師
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経歴:
若い時代はセブンイレブンと呼ばれていました。
倫理法人会会員
週一回早起き実践中

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