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2008年06月30日

最上不変の人格

稲盛塾長の講話より

最上不変の人格とは、仕事に打ち込むなかで作り上げられる
 先月末、アメリカ・ワシントンにある戦略研究所で「リーダーとは(リーダーシップと創造性と価値観)」という題のセミナーがあり、スピーチを頼まれていましたので、行ってまいりました。
 私は「リーダーのあるべき姿」というテーマで、人格が素晴らしいからリーダー足りうるのだ、という人格論を冒頭に掲げて、ではそういう人格はどうしてできるのかということを話しました。
 あの人は立派な人格を持っているから、我々のリーダーになってもらおう、となりますが、その人格はその人固有のもので、全然変わらないものではありません。たとえば、非常に真面目で立派な人格者だと思っていたのに、その人がリーダーになり、リーダーを続けているうちに、みんなからチヤホヤされて、段々傲慢になり、最初のときとはまったく違った人柄になってしまうということがあります。つまり、人格は変化するんです。境遇によって、また環境によって、また自分自身の状況によって変わるんです。
 では、変化しない人格というものはどうして作られるのか。私は内村鑑三が書いた『代表的日本人』のなかにある、二宮尊徳を例に挙げてお話をしました。二宮尊徳は日本の江戸時代の農民で、朝は朝星、夜は夕星をいただくまで、鍬一本、鋤一本を担いで田畑に出て農作業を繰り返しておりました。そして非常に貧しい農村を、次から次へと豊かな農村に変えていくという、素晴らしいことをされた人です。二宮尊徳があまりにも素晴らしい業績をあげていくので、貧しく疲弊した村の再建のために、日本各地の殿様が「私の国の村が疲弊しているので助けてほしい」と、彼を呼ぶようになります。彼もそれを次から次へと引き受けて、富める豊かな素晴らしい村へと変えていきました。
 やがて、当時の江戸幕府にもその噂は広がり、晩年には、尊徳を殿中に住まわせるまでになります。そのときのことを、内村鑑三は名文で表現しています。氏素性、生まれも育ちも貧しい家に生まれ、教養も何もない一介の農民である二宮尊徳が、侍や貴族と同じように裃を着けて城に上がり、交わる。そのときの物腰、喋り、言っている内容、すべてが素晴らしいもので、交わるみんなが、彼はどこの生まれなのかと思うぐらい、目を見張るような言動であったといいます。
 朝から晩まで農業しかやっていない人が、物事の本質を究めたために、殿中で貴族や武将とお付き合いをしても、何ら遜色がないどころか、その人達から尊敬を受けるぐらいに素晴らしいものを、尊徳は身に付けていたのです。
 つまり、人格というようなものは、仕事に打ち込むことによって身に付いていくのであって、なまじっか学問をし、勉強をし、本を読んで身に付いていくものではないということです。
 セミナーでは、「物事に打ち込んで打ち込んで人格を作り上げたような人を、すべての組織のリーダーに選ぶべきです。そうすれば、間違ったリーダーを選び、その集団を不幸に陥らせることはないはずです」と話を結びましたけれども、物事を究めるということは、そういうことにも通じていくわけです。

2008年06月29日

惚れて好きになれば苦も厭わず

稲盛塾長から講話から

惚れて好きになれば苦も厭わず

 「仕事が好きになる」ということは、たいへん大事なことです。それはなぜなのかといいますと、好きになれば、それは苦労だと感じないのです。好きではないものをお義理でやっていると、些細なことでも非常に苦しく感じます。
 私は自分で研究が好きになったために、実は寮から鍋釜を持ってきて、会社の研究室で炊事をし、そこに寝泊まりをして研究をしていました。それはちっとも苦ではなくて、楽しくなったために、そうしていたわけです。
 本人が好きでやっている範囲においては全然何ともない。疲れもそんなに感じないものです。ですから、「惚れる」「好きになる」ということは、大きな仕事を成し遂げていくためのたいへん大事な項目だろうと思います。

 完全主義を貫き、真面目に一生懸命地味な努力を積み重ねれば物事の本質に達する
 「完全主義を貫き」、「真面目に一生懸命仕事に打ち込み」、「地味な努力を積み重ねる」という、この三つのことを四六時中やっておりますと、物事の本質を究めるところに到達していきます。
 仕事に打ち込んで、そしていい加減ではなくて、完全主義を貫いて必死に打ち込んでやっていく。四六時中打ち込んで、3年が経ち、5年が経ち、10年が経ち、15年経っていく。そして物事の本質を究めていくようになっていくのです。
 それは、あたかも禅宗のお坊さんが禅を通じて悟りをひらかれるのと同じようなことにつながるんだろうと、私は思っています。
 私自身5年、10年とセラミックの研究開発、また会社経営を一生懸命にやっているあいだに、何かある核心みたいなものをつかんだような感じになっていったように思います。

 あるとき、テレビか何かで、宮大工の方が対談中、素晴らしいことを仰るのを聞きました。その方は小学校を出てから宮大工一筋に仕事をしてこられ、もう齢は 60、70です。その方が素晴らしい哲学の先生と対談をしておられる。そして、大学の哲学の先生もタジタジするぐらいに素晴らしいことを言われる。私は、「これだな」と思いました。
 「一芸に秀でる」ということです。ものを究めるというのは、ただ単に物を削ったり、カンナをかけたり、宮大工で素晴らしいものが作れるというだけではなくて、人間性まで素晴らしいものを作り上げていく。つまり、一芸に秀でるとか、物事の本質を究めた人は、万般あらゆるものに通ずるんだなという感じがしました。私自身、ぜひ、そういう境地にまでならなければいけないというふうに思いました。

2008年06月28日

仕事を好きになったことが私の原点

稲盛塾長の講話から

仕事を好きになったことが私の原点
 ちょっと脱線をいたします。
 皆さんもご承知かと思いますが、私は今から44年前に大学を出ました。当時は就職難の時代で、朝鮮戦争がおわったあと、日本は不況でした。なかなか就職できないなか、恩師の紹介で、焼き物を作っている松風工業という京都の会社にやっと就職させてもらいました。ところが、就職難のなかをやっと入れてもらったにも関わらず、そこはたいへん景気の悪い赤字続きの会社で、給料も、常に遅配されていました。
 社員寮も本当にボロボロで、畳にはゴザがなくて、なかの藁が臓物みたいに出ていました。花ござを買ってきて、その藁の上に虫ピンで留めて寝なきゃならんという状態です。ですから入った瞬間、もうたちまちに不平不満が出てきました。
 当時、私を含め大学卒業生は5人入社しましたが、その5人は寄ると触ると「こんなボロ会社、早く辞めよう」「早く辞めよう」と言い合って、本当に早く辞めた奴は勇気があるという感じでした。ですから、会社が好きになるはずがありませんし、仕事が好きになるはずもない。もう不平不満ばかりでした。
 そのうちにひとり辞め、二人辞め、結局、夏が過ぎる頃には、5人だったものが私を含め二人だけになっていました。残ったもう一人は、京都大学の化学を出た、九州・天草出身の男でした。
 ある時、その二人で会社を辞めて自衛隊に行こうと話し合い、伊丹の自衛隊で幹部候補生の試験を受けました。二人とも合格することができ、幹部候補生学校に入隊することとなったのですが、入隊するのに必要な戸籍抄本が、私だけ田舎から送ってこないのです。天草の彼は、田舎からすぐに送ってきたのですが、私の実家からは、締切日になっても送ってこないのです。結局、彼だけが幹部候補生の学校に行きました。

 そして、私は一人会社に残ることになり、「こうなったら仕方ない。愚痴をこぼすより、気持ちを切り替えて研究に打ち込もう」と思いました。
 面白いことに、不平不満を言わず、研究に打ち込み始めると、良い結果が生まれる。良い結果が生まれますから、当然、面白くなってきます。そしてどんどん研究に打ち込み、わずか1年ぐらいで、日本では誰も開発できなかった、新しいセラミックの人工合成に成功することができました。後で知りましたが、それはアメリカのGE社で、私が開発する1年前、既に研究開発されていたそうです。

 しかしながらその新しい材料を私が独力で、自力で作り上げたわけです。そのために周囲の人からもたいへん誉められるし、自分もたいへん嬉しいし自信がつきます。 どこにも行けなくなって、しようがなくて、自分の仕事を好きにならざるを得なくなった。実はそこからこんにちができあがっていったのです。

2008年06月27日

自燃性を作る2

稲盛塾長の講話から

自燃性を作る(責任感と使命感を持たせる)
 もうひとつ、自ら燃えさせる方法があります。それは、責任感と使命感を持たせることです。
 それは、さほど勝ち気でもないし、さほど積極的でもない人、真面目で大人しそうな人の場合には、責任感を持ってもらう。気が弱く、自分から進んでやろうとはしないという若干の問題があっても、その人を責任のある立場に就け、そして部下を3人でも4人でもつけて、使命感を持ってもらう。そうすれば、若干大人しそうな人でも、自分から燃え上がって「やろう」というふうになっていきます。

 実は先月、鹿児島の京セラ川内工場で、「素晴らしい人生を歩むための五つの要点」という話をしてきました。
 五つの要点の最初に出てくるものが「仕事を好きになる」ということです。私はそのとき、「会社が好きになる」「仕事が好きになる」という二つを挙げました。

2008年06月26日

「自燃性を作る(勝ち気で積極的な人材に仕事が好きになるよう仕向けていく)」

稲盛塾長の講話から
「自燃性を作る(勝ち気で積極的な人材に仕事が好きになるよう仕向けていく)」

 「自ら燃える」人はどうして作ればいいのか。
 自分から燃える人は、言われて仕事をする、命令されてから仕事をする人ではありません。そうではなくて、言われる前に自分からやります。そういう積極的な人が「燃える人」なんです。
 たとえば、燃える人を採用したい、燃える人を見付け出したいという場合、やはり最初にくるのはその人の性格です。燃えるタイプの人は、まず第一に勝ち気な性格です。そして、常に何事にも積極的な人です。そういう性格の人が、自分が今与えられている仕事が好きになってくると、完全に自分から燃えてくれます。ですから、なるべくならそういう人を採用し、そういう人に、仕事が好きになるように仕向けていくことによって燃える人は作れるのではないかと思います。

2008年06月25日

「日々の創意工夫が地味な努力の積み重ねを支える」

稲盛塾長の講話から

 地味な仕事を毎日毎日やっていますと飽きがきます。倦んでしまいます。つまりイヤになってくるわけです。私は、そのイヤになることを防ぐ方法と、地味な努力に加速度をつけていく方法を自分で考えました。それは「創意工夫」ということです。
 創意工夫と言えば難しそうに思いますけれども、今日よりは明日、明日よりは明後日と、必ず改良改善を加えるということです。
 そして、創意工夫を伴ってやっていくと、日々が変化します。地味で単純な作業が、今日よりは明日と変化していきますから、面白味も加わっていきます。
 しかしそれは、飽きがこないための方法だけではなくて、実は大きな飛躍をもたらすもとにもなっていくのです。

 地味な努力を積み重ねことはたいへん大事なことです。同時に、その積み重ねのなかで創意工夫をする、改良改善を続けていくことが、中小零細企業から大企業へ変身を遂げていく、ただひとつの方法だと言ってもいいと思います。ぜひ、これを頭に入れてやっていただきたいと思います。

2008年06月24日

「地味な努力の一歩一歩の積み重ねが偉大なことを成す」

稲盛塾長講話から

 地味な努力を積み重ねることは、私はたいへん大事なことだと感じています。
 どんな偉大な仕事、どんなに偉大なことも、地味な努力の一歩一歩の積み重ねでしかできません。
 自分の会社を大きくしたいと思っていても、今やっている地味な仕事をしていたのでは本当に日本一の会社にできるだろうかと、自分が描く目標とのあいだに乖離を感じて悩んでしまいます。
 ひとりがやれる仕事というのは知れていますし、たいへん地味なことです。しかし、それを続けていくことが偉大なことを成すためのベーシックなものなんです。

2008年06月23日

「勤勉なる労働を通じてこそ、真の人格が形成される」

稲盛塾長の講話です。

 リーダーは立派な人格を備えていなければなりません。しかし、人格というのは時々刻々と変化するのです。あの人は人格者だと一時は思っても、社会環境やら、いろんな環境が変われば、その人の人柄は変わるのです。
 私は昔、よく「晩節を汚す、老人ボケをする年寄りが多すぎます。ですから、まだ正義感の溢れる若いときに正しいことを貫いてやるべきだと思う」ということを言いましたが、一生懸命働くことによって作り上げた、晩年までかけて、若いときからずうっと苦労に苦労を重ねて、真面目に一生懸命仕事に打ち込むことによって作り上げた人格というのは、そう簡単に狂うものではありません。つまり、そういうプロセスを経て作り上げた人格者、そういう人をリーダーに選ぶべきです。
 真面目に一生懸命仕事に打ち込むこと。それは自分の人生、自分の人格を作り上げるためにもたいへん大事なことなんです。ですから私は、会社の仕事をうまくいくようにするために、ただ真面目に一生懸命頑張れよ、頑張れよと言うのではなくて、それは個々人、京セラという会社に勤めている社員、その人達の個々人の人間性を高めていくことにもつながるのですから、ぜひ、真面目に一生懸命頑張ってくださいよ、と申し上げているわけです。

2008年06月22日

「真面目に一生懸命仕事に打ち込む」 

稲盛塾長の講話です。

仏陀が説く精進とは、真面目に一生懸命努力をすることなり
 私はよく、仏陀が悟りをひらいて、我々に説いたという話をしますが、悟りをひらくとは、心を高める、人間性を向上する、心を美しくしていくということと同意語です。仏陀は悟りをひらくための最初の方法として、「精進」、精進をしなさい、ということを言っております。
 精進するということは、真面目に一生懸命に努めるということです。何でもいいから真面目に一生懸命に努めるということは、報酬を得られるばかりではなくて、人間性を向上させ、人格を高め、心を美しくしていくという副作用があるわけです。
 お寺では、普通の食事を作るのでも男の雲水が作りますし、あらゆる作業をするわけですが、その作業をすることを修行のひとつとして考えています。禅定、坐禅を組んで精神統一を図り、精神を高揚させていくのと同じだというわけです。一心不乱に真面目に一生懸命に仕事をすることは、坐禅をしているのと同じ、変わらないんだというわけです。
 フラフラして仕事をする、ただ頑張っているというのではなく、「真面目に一生懸命」というのは一点に昇華する、一点に絞り込んで努力をしているわけですから、それは坐禅と同じなのです。そういう努力が、人間というものがたいへん立派になっていくもとなんだと考えて、お釈迦さんは修行をしていくなかの第一番目に「精進」という言葉を使っておられるんです。つまり、真面目に一生懸命仕事に打ち込むということです。

 (真面目に、真剣に。人生の豊かさは仕事(本業)に打ち込むなかで生まれる)
 世の中で、特にモノづくりの世界では、名人、達人と言われる人がいます。あの人は名人だと言われるような人は、言わずもがな、生涯を通じて、真面目に一生懸命仕事に打ち込んできたから、名人と言われる、または達人と言われる領域にまでいったわけです。どの業界においても、真面目に一生懸命やった人でなければ、達人、名人と言われるようにはなれません。フラフラと、ただ努力をしましたというようなものでは、なれるわけがありません。
 つまり、名人、達人とは何かといいますと、仕事ができるだけではなしに、その人の心、その人の精神状態が非常に崇高なところにまで高まっていなければ、名人とは言いません。ただモノづくりで、よいものが作れるだけでは、それは技能が高いということであって、名人とは言わない。名人、達人と言われる人は、技能も優れているけれども、その人の持つ心の状態が素晴らしいために、作った作品にもその心が移って、人が感動し、感銘を受けるような素晴らしいものが作れる。それはまさに、真面目に一生懸命仕事に打ち込んでいなければ作れないものです。
 人間、仕事だけが人生ではありませんよ、と言ったりします。趣味や娯楽も要りますよ、立派な趣味を持ち、もっと豊かな人生にしましょう、というお話もよく耳にします。それは本業である仕事に打ち込むことのできない人が、人生のなかで虚ろに感じ、そのために趣味みたいなことに自分の喜びを見い出そうとして趣味のほうに移っておられるのであって、本業に真面目に、真剣に打ち込むことによって、その本業に喜びを見い出すことこそ、プロの経営者として仕事が全うできるもとではないかと思います。ですから、中小企業であれ何であれ、経営者として従業員を守っていく、またお客さんを守っていく、家族を守っていくために、仕事に真面目に一生懸命打ち込むということはたいへん大事なことだと思っています。

2008年06月21日

「完全主義を貫く」

稲盛塾長の講話です。

 (わずかなミスが結果のすべてを水泡に帰す)
 セラミックを作るときは、最初は何種類かの材料を混ぜ、それを形作って高温で焼きます。次には、焼いたものを研磨したり、メタライゼーションという金属化をさせたり、製品化するまでには非常に長い工程があります。そうして何十という工程を経て最終製品になるのですが、そのなかの一つの工程でも失敗しますと、全部ゼロになってしまいます。それまでに注ぎ込んだ材料代から加工代、電気代、あらゆるものすべてがゼロになってしまいます。つまり、わずかコンマ何%というミスが工程のなかで一回起っただけで、それまでの努力がすべて水泡に帰してしまう、全部ムダになってしまうのです。ですから、一瞬の気の休まる間がないくらいの完璧主義、パーフェクトを狙っていかなければならないのがモノづくりの世界です。
 昔、私が実験をしていたときに、こういうことがありました。
 原料の粉末を混ぜるとき、実験室でやるときには、純粋なメノウでできた乳鉢と、すりこぎを使います。そして、自分でこういうセラミックを合成しようと思って、自分で計算した材料を入れ、その材料をすり潰そうとするときには、メノウ同士が擦れたことによって出てくるシリカ分もプラスされますから、それも前もって予測して計算しなければならないのです。
 ところが、ゴリゴリ、ゴリゴリと混ぜていくと、その時間が経てば経つほどメノウのすりこぎから、またメノウの乳鉢から出てくるシリカ分が加わっていきます。ですから、長く混ぜれば完全によく混ざりますが、同時に不純物としてシリカも入ってくるという問題があるのです。
 また、セラミックというのは、石ではないが、固い石の粉みたいなもので、たとえばメリケン粉を想像してもらうとわかりやすいと思います、そこに色の違ったメリケン粉を入れるとします。最初、まばらになっていたものが、一生懸命に混ぜていくうちに均一に混ざってきます。
 ところが、液体だときれいに均一に混ざったことになりますが、粒ですと、どこまでを混ざったというのかという限界があるわけです。よく混ぜてモノを作ろうと思っても、どこまでを混ざったというのかということも問題になってきます。
 乳鉢ひとつで混ぜる、またはポットミルという回転するミルで混ぜる。それでも完全に混ざったというのは、どの時点を言うのだという。哲学問答みたいなものです。
 ですから私は、乳鉢で擦りながら、よく「どこまでを混ざったとすればいいのか。完全に混ざるというのは、どういうことなのか。混合というひとつだけでもたいへんなことなんだな」と考えながら実験をしておりました。つまり、すべてのものが完全でなければ、自分の理想とするものは作れないと、自分で感じていたわけです。
 昔、まだチッポケな会社の時代には、私どもの場合は注文生産でした。営業が東芝に行き、東芝の方々と打ち合わせをして、こういうセラミックを納期○○までに作ってくださいと言われる。営業は「間に合わせましょう」と言って引き受けてきます。東芝さんは、そのセラミックをもって真空管を作ろうと準備しておられますから、その期日までに作って納めなければなりません。そのときに限って、もうギリギリの最後のところで、製造がちょっとしたミスをしてしまいダメになるわけです。そのセラミックは、最初に粉を混ぜてから15日間かかるものなんです。ですから、最終の出荷の手前で失敗されると、あと15日かかる。夜、寝ないでやっても15日かかるわけです。お客さんには15日間、待ってもらわなければなりません。
 東芝さんからは、納期が 15日遅れるというので、営業がこっぴどく怒られます。「おまえのところみたいなボロ会社に頼んだばっかりに、オレの会社は潰れるやないか」てなことを言われる。それをモミ手をして何とか許してもらって、半ベソをかきながら帰ってきて、「社長、二度と取り引きせんと怒られています……」。そういう辛酸をなめてきていますから、たったわずかなミスでもえらいことになると知っているのです。京セラでは完全主義を旨としてやってきました。

 (ベストとパーフェクト)
 会社ができて20年ぐらい経った頃でした。フランスの名門企業で、シュランベルゼーという会社があります。石油の掘削をしていくときに、電波や地磁気を使ってどのくらい掘れば油の層に突き当たるのか、測定をする専門の会社です。地球上で掘削用のリグが動いているところにはシュランベルゼーの技術屋が派遣されていて、現地で測定して指導をしています。
 そのシュランベルゼー社の当時の社長が、今から20年前、私が新聞雑誌でいろんなことを喋っているのを見ておられたらしく、来日されたときに、わざわざ京都へ訪ねて来られました。私はシュランベルゼーがどういう会社かもよく知らなかったのですが、会ってみましたら、素晴らしい哲学を持った経営者なのです。
 その方が、どうしても私に会って、経営哲学を語り合いたいと京都に見えられたのです。さすがにシュランベルゼーを世界有数の石油掘削の測定会社にした人だけあります。私も感銘を受けました。
 彼も私に感銘を受けたというので、彼が米国アリゾナのスコットディールに所有しているプライベートな別荘で、あなたと経営哲学を語り合いたい。できれば京セラの幹部数名、シュランベルゼーの幹部役員数名とで、ひと晩、ぜひ経営哲学を語り明かしたいと、彼から招待を受けました。いまだかつて経営者同士が集まって哲学を語り合ったことは、日本においてもありません。その後も一度もありません。
 京セラがまだ世界的に有名になっていなかったときですが、幹部を数名連れて、アリゾナのスコットディールに彼を訪ねました。
 シュランベルゼーのモットーのなかに「ベストを尽くす」という言葉がありました。シュランベルゼーは世界一の石油掘削の測定用の会社です。世界中からオーダーを受けてヘルプしています。ロシアであれ、中国であれ、どこであれ国境を越えて、どの国でもシュランベルゼーを使わなければ石油が掘れないという、そういう特殊な技術を持っている会社です。その会社のモットーが「ベスト」で、京セラは「パーフェクト」です。
 夜、議論になったのは、そのことでした。シュランベルゼーはベストを狙う。京セラはパーフェクトを狙う。ベストとは、より良い、最高にいいものという意味ですが、私はモノづくりの精神からいって、最高にいいものであっても、ちょっとした瑕疵、傷があるだけで、我々の場合には全部パアになってしまう。つまり、完璧、パーフェクトでなければならないというので、パーフェクト論とベスト論で深夜まで議論が続きました。最終的には「いやあ、まいった。その通りだ。今後ベストを止めて、ウチもパーフェクトに変えようと思う」と言われました。
 完全主義とはいっても、完全なことができるわけがないのです。ないのですが、その完全主義を貫いていこうということをフィロソフィのなかに入れて、みんなで努力しているわけです。

2008年06月20日

「常に明るく」

稲盛塾長の講話です。

(自分の人生は素晴らしい幸運に恵まれていると信じて努力する)
 不思議なようでありますが、人生がうまくいっている人は必ず、常に明るい心を持っている人です。決して暗い、鬱陶しい、不平不満に満ちたような人生を送っている人ではありません。もちろん、努力をする、誰にも負けない努力をするという根性みたいなものが大事でありますが、ネガティブな不平不満を持つのではなくて、常に明るく自分の未来、自分の人生はきっと素晴らしい幸運に恵まれているはずだということを信じて努力をしていく。それぞれの人生はみんな開かれており、みんな明るい人生が開かれているはずです。それを信じて、明るい心を持って努力をしていけば必ず、人生はどなたでも素晴らしい未来が開けていくはずです。目の前の細かい困難、当座の困難、苦労、苦難にめげないで、自分の未来を明るく描いていく。そして、厳しい現実のなかについ打ち負けようとする自分を励ましながら、明るく、明るく振る舞っていくことが大切です。

 (物事を明るく、善意に受け止める)
 物事を暗く取るか、明るく取るか。どんなことがあろうとも、それをいいほうに、いいほうに解釈をしていくんです。悪いほうに、悪いほうに解釈をし、悪いほうに取っていったのでは人生は暗くなります。どんなことであろうとも、たとえ相手が自分に対して悪意を持って何かをしかけようとも、また悪意をもって自分に何かを言われた場合でも、悪口などは気にしないほうがいい。つまり、笑い飛ばしておくことのほうが遙かにいいのです。
 そう言う私自身、決してそうはいきません。バカにされたり、軽蔑されたりすればムカッパラが立って、腹が立ちます、しかしそれを悪く取らない。なんと、あの人は哀れな人だろう、なぜ、あんなことを人前で言うのだろうというふうに、悪く言っている人のほうが遙かに人間が貧しいから、そういうことを言っているんだと思うことによって、腹を立てなくても済むということです。
 つまり、常に明るく物事を考える。物事はすべて善意に取る。たとえよしんば悪意に満ちたことであっても、善意に取ることが必要だろうと思います。
 私の子供の頃のことです。私はガキ大将で、小学校高学年から中学、高校にかけて、ケンカばかりしていました。しかし、ケンカがたいへん強かったわけではありません。身体は、今でこそ背は高いですが、中学、高校の前半までは、少し低いほうでした。それでも負けん気が強くて、よくケンカをしたものです。
 今の若い人達は言わないのかもしれませんが、昔はガンを付けたとか、ガンを切ったと言って、つまり、目と目が合ってギュッと睨むと、ガンを付けたというので、「オイ、コラ」とケンカが始まる。他愛もない、下らないようなことで、しょっちゅうケンカをやっていたわけです。
 中学3年生ぐらいになって、少し大人になってきて、なんでこんなにケンカばかりするんだろう、と自分が情けなくなってきました。ちょうどその頃、人生などをいろいろと考える時期にもなったのでしょう。なんで自分はケンカばかりするんだろうと情けなくなったときに、別の自分が私に言うのです。つまり、戒める自分がいたわけです。
 「おまえの友達を見てごらん。誰もおまえみたいに、しょっちゅうケンカをしないではないか。しかも、おまえがケンカをするのは、他愛もないことではないか。おまえの友達を見てごらんなさい。おまえの友達は、そういうことは日常茶飯起っているのに、みんな笑い飛ばしているではないか。なのに、おまえだけはそれを取り上げて、それをケンカのネタにしている。なんと、おまえは哀れな男よ」
 そう言われても、私は強がって、「いや、僕の友達はみんな勇気がないからだ。実は腹が立ち、自分からコラッとケンカをしようと思っても、勇気がないから自分が卑屈になって、それを抑えているだけなんだ」と、悪いほうに解釈していました。だから、私はまだ勇気があって、ケンカをするだけの勇気があるからマシなほうだと思っていたのです。
 高校に行ってもケンカばかりしていました。そうするといよいよ、やっぱり自分はダメな男だ、そういうことに一々腹を立てるのではなくて、たとえよしんば相手が悪意をもって言ったにせよ、それを笑い飛ばすだけの人間性が要るのではないかと思うようになってきて、たいへん反省し、それからプッツリ、ケンカを止めました。
 そういう経緯があり、物事を悪いほうに解釈してしまうために、本当はケンカをするようなことではないにも関わらず、顔中血だらけになってケンカしてしまう。それは全部自分の心が招いたもの。そういうことを、今思い出します。
 「明るく」ということは、たいへん大事なことです。人生のなかで、何でもないことのようですが、明るいということは非常に大事なことなのです。

2008年06月19日

「仲間のために尽くす」

稲盛塾長の講話です。

 (他に尽くすことは人格を高めていくための大事な行為)
 私は常に「世のため人のために尽くすことが人間として最高の行為です」と言っています。仲間のために尽くすということは、世のため人のためにという広い、社会的に尽くすということに較べて、非常に狭い範囲の利他行ですが、これはたいへん大事なことなのです。仲間のために尽くす、世のため人のために尽くすということは、これは美しい心の代表的な例です。同時に、仲間のために尽くす、世のため人のために尽くすということは、その人の心を美しくしていきますし、その人の心を純粋にしていきます。もしくは、その人の心、その人の人格を向上させていくために、これはたいへん大事な行為です。つまり、人のために尽くすということは、自分自身の人格を高めていくためのたいへん大事な行為なのです。
 仏教で言うと、「利他行」です。仏教では、他人のために尽くしてあげなさいという利他の行為をたいへん大事にします。そして、その利他を積むことが悟りへの道だと、仏は説いています。悟りへの道とは、つまり、人間性を高める、人格を高めることなのです。

 (仲間のために仕事をする精神がアメーバ経営方式の真髄)
 京セラは最初の頃からアメーバという小集団の独立採算制を敷いてきました。数名の経営者、ひと握りの経営陣が経営を考えるのではなく、全社員が経営者と同じようなマインド、考え方、精神で会社を経営していくのが一番強い組織体であろうと思ったのです。効率的な経営を目指す企業で、アメーバ経営的な小集団、もしくは事業部別独立採算制で経営を見ている企業は、もうすべてといっていいくらいです。私の場合には、それを更に小集団化したわけです。
 ところが独立採算の事業部制を採用した場合、よく問題になることがあります。たとえば、自分の事業を四つに分け、それぞれを独立採算で経営を見ていく場合、ひとつの事業部は非常に利益が出て、ひとつは赤字が出ている場合、どうするのかという問題です。
 一般的に、特にアメリカの場合は、収益に応じて、その部門の人達にボーナスをたくさん出すことがあります。つまり、成果による利益配分です。利益の成果配分という形をとる企業が、アメリカでは100%に近いといえます。日本でも、事業部別独立採算制を敷かれている場合には、そういう利益配分の仕方を採用している企業が多いのです。
 また同時に、利益が出たときにはボーナスをとてもたくさん出します、そのかわり、利益がある一定以下になったときにはボーナスはゼロです、という非常にドライな、ハッキリしたやり方をとる企業もあります。業績が上がりさえすれば、天井知らずにボーナスがもらえる。一般には3ヶ月、4ヶ月しかもらえないようなボーナスが、10ヶ月分も出る、15ヶ月分も出る。ところが、業績が悪いときにはゼロになってしまう。
 京セラのアメーバ経営方式では、独立採算で経営をしていきますが、アメーバのなかでたとえ業績がよくても、そこで給料が多いとか、ボーナスが多いということはありません。業績を上げた集団は仲間のために貢献をしてくれた、仲間のために業績をあげて、仲間を助けてくれたという賞賛をされることはあっても、給料、ボーナス等で物質的に報いることはしません。つまり、わが京セラという集団のなかでAというアメーバが非常に利益に貢献をしてくれ、利益の出ない部門もあったにも関わらず、会社全体を盛り上げてくれた。しかし、そのためにAというアメーバのボーナスが多かったり、給料が高かったりするのではなくて、仲間のみんなが、仲間のために貢献してくれたその集団に賞賛と賛辞を呈して終わりです。
 「なんでそんなことをするんだ?」「それでよくみんなが納得しますね」と、よく言われてきました。それはまさに創業のときから、仲間のために尽くすことが人間としてどのくらい立派なことか、何かをしてやったから代償をくれというのではなくて、無償で仲間のために尽くすことがどのくらい立派なことかということをずっと説いていますから、京セラの場合は、自分の事業部は利益が出たから、さあ、ボーナスをたくさんくれ、給料をもっと上げてくれということにはならないのです。これはたいへん大事なことです。
 では、なぜ私はよくやってくれた事業部にお金、物質でもって報いていかなかったのか。それは単純な人間心理の問題なのです。頑張ってうまくいけば、ボーナスがたくさんもらえる、給料が上がる。そうすると、もらった事業部は非常に士気が高まっていきます。そしてさらに高いボーナスをもらおう、給料も上げてもらおうと、さらに士気が盛り上がり、元気が出てきます。一方、それを目の前にした、うまくいかなかった事業部のほうは意気消沈していきます。そして、そういうことがあればあっただけ対比されますから、ますます意気が沈んでしまいます。つまり、ひとつの事業部が非常に元気よく活況を呈していくのに較べて、一方はそれに反比例して沈んでいくのです。それでは結局、全体としてうまくいくはずはありません。
 たとえば、意気消沈する事業部に「あんたも頑張りなさい。頑張ったら、必ずボーナスもたくさんになりますから、給料も高くなりますから」と励まして、その事業部も頑張ったけれども、なかなかうまくいかなかった。1年2年、頑張ってみてうまくいかなければ、人間というものは段々拗ねていきます。そしてひがんでいきます。
 そしてうまくいっていた事業部も、ますます事業がうまくいくかと思っていても、人生というもの、順風満帆にはいきません。きっとつまづいて、業績が落ちるときがきます。今までは、普通一般の企業の場合には2ヶ月、3ヶ月しかボーナスが出なかったところを、6ヶ月分も5ヶ月分も一度にボーナスをもらっていた人達です。その人達は、業績が悪くなったので、はい、今回のボーナスは2ヶ月しか出ませんよ、いや、1ヶ月分ですよ、いやいや、ゼロですよとなったとき、どうなるのか。5ヶ月、 6ヶ月分もらっているときには、たいへん喜んで盛り上がっていたのに、1ヶ月分しか出ないとなれば、本当に人間の心というものは手のひらを返したように意気消沈します。同時に、「これでは食べていけません」「5ヶ月分のボーナスがもらえるというつもりで、
実は住宅ローンを組んで住宅を買っています。ひと月しかもらえないのだったら住宅ローンの返済もできません」と、それが不満に変わってしまうのです。
 一方では、万年うまくいかなくて意気消沈している事業部がある。一方では、精々会社を引っ張ってくれるかと思っていた事業部まで、人間関係が崩れてしまう。あとは悲惨な状態になっていきます。いい状態を作ってあげれば、常にいい状態なら、人間はみんな頑張ってくれます。しかしながら、よかったり悪かったり、アップ・アンド・ダウンを繰り返したとき、人間の心は決して安定していきません。
 よく頑張ったところには賞賛をします、褒め称えます。周辺の従業員からも、あなた達がよく頑張ってくれたから、ウチの会社がうまくいっているんですと、いい事業部は賞賛されます。そして、うまくいっていない事業部の人達にも平等に、同じようなボーナスがもらえるのは、あなた達が頑張ってくれたからですと、社員全部から賞賛される。私は、会社を運営する以上、つまり小集団に分け、すべてを独立採算にして評価をする以上、名誉だけを与えるという形をとってきました。全員で努力をし、平均して、みんなが高い生活レベルを維持できるようにと考えたからなのです。
 小集団で独立採算という経営をしていきますと、ともすると、利益が出た部門の人間は、天狗になり、高い給料をもらいたい、ボーナスをもらいたいというふうになっていきます。そのためにも、創業のときから「仲間のために尽くす」ということを、強くみんなに言ってきたのです。

2008年06月18日

「信頼関係を築く」


 (慰安旅行の真意は信頼関係の構築にある)
 京セラでは、信頼関係を築くための一番大事な行事として、コンパというものをやってきました。そして、会社の行事は、全員参加を条件にしてきました。
 忘れもしません。創業し、一生懸命頑張って、段々と会社がよくなってきた30年代後半には、当時の日本の企業がやっていたように、社員の慰安旅行をしたのです。会社のなかで信頼関係を強め、家族と同じように絆を高めていこうとするものでした。
 社員旅行をするときには、たとえば「みんなよく頑張ってくれたので、この夏は社員旅行でどこそこに行きます」と発表します。当時は20代前半の人達が大半で、親子ほど齢の違う人達もいたわけですが、慰安旅行に行くと発表すると、「ガキみたいな連中と慰安旅行に行って、温泉に行ってもちっとも面白くない。夜はガヤガヤとガキ共と酒を飲んでも面白くない。オイオイ、その日は慰安旅行に行かないで、4人で麻雀でもしようやないか」と不埒なことを企む年寄りがいるのです。または、「そんなバカなところに行かないで、お金を別にもらって、我々は我々で大人の遊びで、どこかに行きたい」と言う者もいました。
 私は当時、それを烈火の如く怒りました。
 つまり、せっかく全員で慰安旅行に行こうというのは、ただ遊びに行くのではないのです。社員の絆を強め、信頼関係を増すために、慰安旅行に全員で行くのです。そういう機会にこそ、上司と部下という関係ではなく、横に広がった仲間として信頼関係を築いて行くのです。そのために慰安旅行に行こうというのであって、ただ単に遊びに行くんだと考えるものですから、そういう面白くない遊びに行くよりは、同じ中高年の連中だけで麻雀等して楽しもうではないかとなってしまうのです。私は慰安旅行、社員旅行というものを、社員同士、仲間同士の信頼関係を築くためにやったのです。
 日本の中小企業が、戦前から社員の慰安旅行をやってきたのは、経営者が社員に対して、よくやってくれましたという褒美として温泉に連れて行こうというだけではなく、それは多分に横の絆を深めていくためであったはずです。それが段々と形骸化してしまって、とにかくただ遊びだけというふうになってしまった。
 社員の慰安旅行というものを考えた戦前の日本の経営者の人達の意識は、もっと団結心を高めていこう、仲間同士の信頼関係を増していこう、身内としての人間関係をさらに固いものにしていこうという、そういう意図があったはずですが、それがなくなっている。そのために、京セラでは創業当時から、慰安旅行であれ、運動会であれ、何であれ、全員参加が鉄則になっていきました。

 (絆を深めるには、まずお互いを知り合うことから)
 「信頼関係を築く」ということは、絆を深める、絆を強くする、と解釈してもらえばいいと思います。
 では、絆を強くすると、どういうことが始まるのかというと、実は何でもないことなのです。お互いが自分を知ってもらうということが、始まりで、終わりなのです。たとえば部長が自分というものを知ってくれているかどうか。または社員が、社長は私のことを知ってくれているかどうかという。そのことが、実は信頼関係なんです。
 信頼関係というのは、何か約束事でもって、いろんな話をして、何かの取り決めをしたりすれば築けるものではありません。つまり、あの人と私は親しいんだ、あの人と私は話をしたんだ、あの人は私を知っているんだ、私もあの人を知っているんだ、あの人とはこの前、お酒を飲んで喋ったんだ、そういう他愛もないことが信頼関係を築くベースとなるのです。部下が上司に対して、「この人は立派な人だ。私はこの人のために」という高尚な信頼関係もありますが、私が今ここで言っている信頼関係は、もっともっと普通一般のことであって、お互いが知り合いということが信頼関係の始まりであり、終わりでもあるわけです。それだけでいいんです。
 「お互いにわかっている」ということが、実は信頼関係ができるもととなるのです。

 (コンパでの酒が人心の距離を縮める)
 その一番いい方法が、実は酒、車座になって酒を飲むということです。お酒やビールを飲んで、「オイオイ、おまえ」という調子で話すと、「いやあ、塾長、オレの名前を覚えてくれていたぞ」と急に親しみを感ずる、急に近くなってしまう。これが非常に大事なことなのです。
 たとえば忘年会、新年会等の飲み会があります。私は、相当会社が大きくなるまでのあいだ、忘年会に出ていました。しかしながら、12月に入りますと毎日、どの課か部で忘年会をやっています。それを30日間、12月中、続けなければならないのです。
 ひとつの忘年会も段々と大きくなってきて、50人から100人ぐらいの規模になっていきます。一回出ますと、たとえば50人と肩を叩いて、一緒に車座になって、お猪口に一杯ずつでもお酒を飲む。そうすると、たいへんな量になるわけです。
 一緒に車座になって、注いだり注がれたりして飲んでいる。そのなかで話をするのですから、なかに不埒な奴がいたりすると、「コラ、おまえは」と怒ったりします。ひとりの人間に私が烈火の如く怒るものですから、周囲の人はみんな白けてしまう。場が白けますから、一人だけを怒っているわけにはいきません。そいつは放ったらかして次のところに行って、次の人達にまた別の話をしなければならないのです。
 そしてそのときだけは、社長と社員ではなくて、一介の飲み友達みたいにして、「オイ、コラ」と飲んでいます。
 信頼関係というのは難しそうに見えますが、そういうことをしていますと、あの社長は私を知ってくれている、この前、あの社長と肩を組んで飲んだ、あの社長に怒られた、膝を叩いて「おまえ、バカか!」と怒られた────。怒られても、それが懐かしい、または自分を知ってくれているというふうに変わって、絆が深まっていくのです。私は理屈を越えて、社員との人間関係を作っていくのに、そういうことをしてきたのです。
 つまり、コンパをすることによって、自分も京セラという会社の仲間に入れてもらった、という認識を深めていく。そういう意味での、仲間に入れてもらえたという大きなセレモニー、儀式として、コンパ、飲み会を私は重要視してきたわけです。

「感謝の気持ちを持つ」

稲盛塾長の講話です。

(感謝の心は自分の心を美しくし、運命をもひらいていく)
 仕事をしていく上で、また社内の和を保つ上で、お互いがお互いに感謝の念を持ち合うことはたいへん大事なことです。同時にこれは、人生のなかで生きていくのに、最も大事な事柄でもあるのです。
 では、感謝をするということは、どういうことなのか。その人が自分から感謝をする。それは他に対して自分自身が謙(へりくだ)っていなければ、感謝という心は出てきません。こんにち自分があること、自分が今、親から引き継いだこの仕事を、この厳しい環境のなかでも何とかやっていられるのは、実は従業員があってのことだし、お客さんから注文がいただけるからという、そういうことをすべて、自分が謙って、他の人達のおかげがあったからこそだという気持ちで感謝を捧げるわけです。
 たとえば、私は人生をダメにする大きなファクターのひとつとして、不平不満、愚痴ということを常に戒めています。不平不満、愚痴があったのでは、人生をまったく暗いものにしてしまいます。不平不満、愚痴はあってはなりませんと言っていますが、その対極にあるものが感謝です。つまり、不平不満がないというよりは、感謝をするということはもっと進んだ、対極にあるものです。
 自分が相手に対して感謝をするということは、実は自分の心を美しくもしていく要素なのです。そして感謝をするということは、自分の運命そのものをひらいていきます。自分の運命そのものが明るく、未来にひらいていきます。感謝をする心が、そういうものを呼び込んでいくことにもなるのです。

2008年06月17日

《 常に謙虚であらねばならない 》

稲盛塾長の講話です。

次に「常に謙虚であらねばならない」です。
素直であることと同時に、謙虚であることが学びのもとであります。
中国の古典に『謙のみ福を得る』という言葉があります。謙虚な心の人しか幸福、幸せは得られないという意味であります。
謙(へりくだ)ると言えば、何かみっともないように感じる人もいるかもしれませんが、威張り、ふんぞりかえるのは、自分に自慢するものが何もないから、そうするのです。
謙(へりくだ)ったことによって他人が自分をバカにしても、バカにするほうが遥かにおかしいのです。常に謙虚である必要があります。
特に中小の経営者であって、段々会社が良くなってくればくるほど、謙虚さが必要なのです。
私は「常に謙虚であらねばならない」ということを次の様に社員に話しております。

 世の中が豊かになるに連れて、自己中心的な価値観を持ち、自己主張の強い人が増えて来たと言われております。
 しかし、この考え方はでは、エゴとエゴの争いが生じ、チ-ムワ-クを必要とする仕事などできるはずがありません。自分の能力、わずかな成功を鼻にかけ、傲慢不遜になるようなことがあると、周囲の人達の協力が逢えられないばかりか、自分の成長の妨げにもなります。
 そこで集団のベクトルを合わせ、よい雰囲気を保ちながら、最も高い効率で職場を運営する為には、常に「みんながいるから自分が存在できる」という認識の下に、謙虚な姿勢を持ち続けることが大切です。

みなさんは、自分自身もそうですが、同時に社員の人達にも「皆さんも謙虚であってほしい」と訴えなければなりません。
部長さんがふんぞりかえっていたり、取締役が威張っていたのでは、チ-ムワ-クは取れません。決して良いベクトルが揃いません。
偉ければ偉いほど、みんなと一緒に仕事を一生懸命しましょうということを、社長自ら謙虚になって、話をし、会社の中の雰囲気を良くしていくことがたいせつです。
 

2008年06月16日

《 素直な心を持つ 》

稲盛塾長の講話です。

次は「素直な心を持つ」です。
素直な心とありますと、従順なものでなければならないと思われがちでありますが、右向け右、左向け左ではありません。
素直な心を持つということは大変だいじなことです。この盛和塾に入って来られる方々をみておりますと、やはり皆さん素直な心を持ってられます。
この様なクソ真面目な会に入り、勉強しようとされているのですから。
私は素直な心というものは進歩の親だと思っています。
この「素直な心」ということをよく言われたのが、松下幸之助さんでした。
小学校も満足に出ていない松下さんがあの大企業を作りあげられたのは、まさに素直な心があったからであります。
松下さんは終戦前には既に成功を収められておられましたが、そこで放漫、不遜にならず、いくつになられても、自分には学問が無い、自分は耳学問で、他人さんに教えて頂いて成長させて頂こうと心に決めておられたので、素直に物事を学べたし、素直に人の意見がきけたので、生涯発展、進歩していかれたのです。
つまり、素直な心は、人間そのものを伸ばしていくもとなのです。
私は社員に次のように話しております。

 素直な心とは、自分自身の至らなさを認め、そこから努力するという謙虚な姿勢のことです。
 とかく能力の在る人や気性の激しい人、我の強い人は往々にして人の意見を聞かず、聞いても反発するものです。しかし、本当に伸びるひとは素直な心を持って、人の意見を聞き、常に反省し、自分自身を見つめることの出来る人です。そうした素直な心でいると、その人の周囲には、やはり同じ様な心根を持った人が集まり、物事がうまく運んでいくものです。自分にとって耳の痛い言葉こそ、本当は自分を伸ばしてくれるものであると受け止める謙虚な姿勢が必要です。
素直な心が大変大事だということを、この様に社員に言っております。

2008年06月15日

《 きれいな心で願望を描く 》

稲盛塾長の講話です。

3番目は「きれいな心で願望を描く」です。
先ほどから一生懸命心をきれいにしましょうと言ってきました。そのきれいな心で願望をするのです。自分の会社をこうしたい、ああしたいと。
「こうしたい」と描く願望は美しい心で描いて下さい。私は社員に次のように話しております。

 きれいな心で描く願望でなければ、素晴らしい成功は望めません。たとえ強い願望でも、それが私利私欲に端を発したものであれば、一時的には成功するかも知れません  
が、世の道理に反した動機に基づく願望は、強ければ強いほど社会との摩擦を生み、結果的には大きな失敗につながるのです。成功を持続させるには、描く願望や情熱がきれいな心より発したものでなければなりません。
つまり、潜在意識に浸透させていく願望の質自体が問題となるわけです。
純粋な願望を持ち、ひたすら努力を続けることによって、その願望は必ず実現出来るのです。

先ほどの仏教の教典にありましたように「心に描いた通りの現実が起きる」とあります。強い願望は良くも悪くも全部現れるのです。
私もその通りだと思いますが、皆さんの中には、『そうは言っても、きれいな心で描いたからといって、会社がすんなり上手くいくなら、皆さんそうおもうはずです。』と疑う人がおられるとおもいます。
実際悪いことをしている人の会社が上手くいっているのを皆さんは見ておられます。 
-しかし、長いスパン、大体30年くらいで物事を見ていきますと、悪いことをしていれば必ず悪い結果が出てきます。
それは因果応報と言います。以前盛和塾でお話しましたけれど、『シルバ-バ-チの霊言集』というインデイアンの霊魂が出てきて話をするという本があります。
私はその本を読んでいたら大変ビックリしました。
シルバ-バ-チというインデイアンが因果応報について次の様に話をしておりました。

 現世で生きている時に思ったこと、行ったことは、良いものはいいように、悪いものは悪いように結果が出てくるということを皆さん信じていないでしょう。
 しかし、私(シルバ-バ-チ)の様にあの世にいる者から、あの世まで含めてスパンで見ると寸分の狂いもありません。現世では100%合致していないかもしれないが、あの世まで通算してみれば、ものの見事に、ピタッと一致します。

シルバ-バ-チはこの様に言っております。
私はあの世には行ったことはありませんが、大変納得致しました。
きれいな心でなくても、思いは実現するのですが、同業者を蹴落としてでも、悪さをして自分の会社を大きくしようとすれば、大きくなりますが、決して長続きしません。
30年というスパンでみれば、決して成功はしません。
ですから、皆さんもそういう目で物事を見て下さい。
しかし、努力しない人はダメです。人助けばかりやって、自分の会社が大きくなりたいと思っているのに、他人のことで夢中になる。
まづは自分の会社を良くするために頑張り、誰よりも頑張らないと会社はよくなりません。
バブルの頃、次々とビルを建て、銀座の飲屋街で毎日湯水の如くお金を使っていた人が、わずか10年、15年でいまでは打ち枯れたようになっておられます。
つまり、どういう心で描く願望でならないのか、皆さんは経営者ですから、自分の欲望だけではありません、会社の将来というものを賭けている従業員と、従業員の家族を含めた幸せを考えて、皆を良くしてあげようと思って一生懸命に努力をし、会社を立派にしたいと美しい心で願望を描くことが大変必要であります。

2008年06月14日

《 愛と誠と調和の心をベ-スとする 》

稲盛塾長の講話です。

2番目は「愛と誠と調和の心をベ-スとする」ですが、次のように社員に話しております。

 人生や仕事において素晴らしい結果を生むのは、その人の考え方、心の在り方が決定的な役割を果たします。
人を成功に導くものは、愛と誠と調和という言葉で表される心です。
こうした心は人間が元々魂のレベルで持っており、愛とは他人の喜びを自分の喜びとする心であり、誠とは世の為、人の為になることを思う心、調和とはまわりのみんなが常に幸せに生きることを思う心です。この「愛と誠と調和」を尊ぶ心から出てくる思いが、その人を成功に導いていくもとになるのです。

私がよく言っている、「愛」「誠」「調和」の3つのフレ-ズは私どもが持っている根源的なものだと私は思います。
人間というのは、肉体を持っているだけではなく、その中に心があるはずです。その心でいろんなことを考えたりします。
人間の本質を問いつめていくと、「自分とは何ぞや?」ということになるのですが、インドのヨガの瞑想等を通じて、精神統一をして最終的な自分というものに辿りつきます。
人によってはそれは「真我に至る」と言いますが、それはただ存在するとしか言い様のない自分に辿り着いたという表現もします。
仏教では「山川草木悉皆成仏」と言いますが、全ての物には魂が宿ると言われてます。 
肉体では亡い自分の本質についてはいろんな表現がありますが、「魂」と言っても良いかもしれません。実はその「魂」は「愛」「誠」「調和」の3つのフレ-ズで表されるものなのです。
皆さんのおおもとは皆さん知らないかもしれませんが、皆さんそのものが愛と誠と調和に満ちたものなのです。
ところが肉体というものを同時に我々は持っており、この現世で肉体を守るため(食べたい、外敵から自分を守りたい等)に欲望をを兼ね備えているのです。
それは肉体を持っているからそうさせるのです。
しかし、本来の皆さんの本質は、愛と誠と調和に満ちた大変素晴らしいものなのです。

2008年06月13日

《 宇宙の意志と調和する心 》

稲盛塾長の講話です。

何故心を美しく、純粋なものにしなければならないのか? 
それは宇宙の意志と調和する心になるべきだからです。
フィロソフィの中で私は「宇宙の意志と調和する心」ということを次の様に社員に語っております。


 この世の中には全てのものを進化発展させていく流れがあります。
これは「宇宙の意志」とも言うべきものです。
宇宙の意志は、愛と誠と調和に満ち充ちています。
人の思いが発するエネルギ-と宇宙の意志とが同調するのか、反発し合うのかによって、その人の運命が決まっていきます。
 宇宙の流れと同調し、調和するようなきれいな心で描く美しい思いを持つことによって、運命も明るく開けていくのです。

清らかな心、美しい心であれば、なぜ心が平安になるのか?単に言われても理屈っぽい我々現代人には納得できません。
私自身も納得出来ませんでしたが、宇宙には【宇宙の意志】があることに私は気づきました。
地球が存在する太陽系は銀河系のごく一部です。銀河の中には太陽系と匹敵するものが何千億とあるだろうと言われております。
つまり宇宙はとてつもなく大きなものでありますが、物理学者によると、この広大な宇宙も、始めはごくごく一握りの超高温の素粒子の塊であったそうです。
その素粒子が爆発を起こして膨らんでいき、現在でもまだ猛烈なスピ-ドで膨らみ続けていることが証明されています。
元々は一握りの素粒子が爆発を起こし、これだけ巨大な宇宙を作ってきたわけです。  
そんな一握りの素粒子から出来るものかと思われるかもしれませんが、いろんな理屈を考えてみてもそうなんです。
つまり、宇宙は「空」から生まれたわけです。
仏教でも「色即是空」と言っており、在ると思えるものは全部空だと言っております。 
今日の宇宙を作った元は素粒子、その素粒子は一番小さい原子つまり水素原子より更に小さいものであります。
小さな素粒子が何個か集まり陽子を作り、中性子を作り、中間子を作り、中間子の働きで陽子と中性子が結びついて原子核を作り、現在の物質世界の原子を作ってきたのです。
今度は原子同士が結びつき、化合物を作り、化合物同士が結ぶついて、高分子が出来、高分子にDNAという蛋白の高分子が結びついて生命体が誕生しました。この宇宙は元々何もない素粒子でしかなかったものが、一瞬たりともその存在のままでいようとせず、次々と進化発展し我々生き物まで全てを作ってきました。
この宇宙そのものは当然の如く、一瞬たりとも留まることなく、進化発展する方向へものを進めていこうとする流れがあるのです。
私は宇宙のこの流れを「宇宙の意志」と言っております。
森羅万象あらゆるものを進化発展する方向へ流れていく流れ、あたかも神様の意志のような宇宙の意志があるのです。
この宇宙の意志は誰かが命じてやっているわけではありません、宇宙の意志はこの宇宙空間に偏在しているのです。
どこにでも、隙間なく充満していることを偏在しているち言いますが、宗教家はよく「この宇宙には愛が充満しています、愛が偏在しています。」と言われます。また、「仏の慈悲の心が偏在しています。」とも言われます。
実は宗教家の言われるものと同じなのです。すべての物を進化発展する方向へ導く様な意志が、この宇宙には存在するのだということを宗教家も言っているのです。 
宇宙に流れている意志はすべての物を愛し、良くして上げたいという、一方的に良くしてあげたいという愛が流れておりますから、それらに同調する心を我々が持っていなければなりません。我々は企業経営者ですから、他人を蹴落としてでも、足を引っ張ってでも自分が金儲けをしようと思っても、宇宙そのものにはその様なものがありませんから、宇宙の意志と同調しませんし、調和もしません。
自分の心が宇宙と意志と同調するような心であった場合、宇宙というものは放っておいても良くなるようにしてくれるのです。
自分の会社は発展しなくて良いと思っても、宇宙と同調すような心であれば、発展していくのです。
そのために、私は冒頭に「心を高める」ということが必要である言っているのです。
そんな事で本当に自分の会社が良くなるのか?と思われる方がいるかもしれませんが、無生物である素粒子でさえ、中性子、陽子を作り原子核を作り、素晴らしいこのような宇宙を築きあげたのです。
これは宇宙の意志のおかげで、一瞬たりとも留まらず進化発展し続けているからなのです。
自分の仕事はせずに、他人さんのためにだけに人助けばかりをしなさいと言っているのではありません。
自分に力が余っていれば是非人助けをして下さい、ただし、その前に自分が生きるために必死に、誰にも負けないくらいの努力をしなければなりません。
そして自分の会社を立派にし、経営者が心に抱くものは素晴らしく美しいものでなければなりません。愛に満ちた心で、そういう心で日常を接しなさいということです。
私が今お話したこと、「心を高める」ということを聞かれて皆さんは自分がそのようになれるのかと心配されると思いますが、実は私も含めてなれないのです。
なれないけれど、「なりたい」と思っていることが大事なのです。
90%くらいの人は心の大事さ、心を立派にしようということを思ってもおりません。
心を高め、心を美しくしなければならないと思っていることが大事なのです。
しかし、いくら努力をしても、本当に美しい心にはなれないのです。
それは何万人に一人ぐらいで、そういう人を悟りを開いた人といいます。
悟りを開いた人は、何もしなくても全てのことができます。全てのことを見通すことができます。
実は美しい心、心を高めることが悟への道なのであります。
美しい心になりきった時は、悟った状態なのですが、しかし凡人にはなれるわけがないのです。いくら努力してもなれるわけがないのです。
私自身、一生懸命に偉そうなことを言っておりますが、こうして喋っていること自体、実は自分自身の心を浄めようとしているのです。
私がこの様に偉そうなことを言えば必ず反動として、『あなたはどうなんです?』と私自身を責める自分が出てきますから、私自身更に務めなければならないとういう繰り返しが人生だと私は思います。
「企業はその人の器以上にならない」とどなたか仰いましたが、その器とは、その人の心であり、人柄であります。器を大きくしようとすることは、心を浄めよう、心を立派にしようという意味なのです。
先程『あなたの心のままですよ!』とお釈迦様の言葉を話しました。心によって世間が現れますよと言ったことと同じで、あなたの器の分しか企業は大きくなりませんというのは、そういう意味です。

2008年06月12日

《 お釈迦様の説く心 》

稲盛塾長の講話です。

仏教伝道教会が無料で配ってられる教典の中に、お釈迦様
が心について次の様に表現されておられます。

 この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受け
ている 迷いの心によって、悩みに満ちた世間があらわれる。
全てのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成り立
っている、 汚れた心でものを言い、また汚れた身体で物事を
行うと苦しみがその人に従うのは、丁度牛が車を引いていくよ
うに、牛が歩くと車が従っていくようなものである。
 しかし、もしよい心でものを言い、また、それを身体で行うと
 楽しみがその人に従うのは、丁度影が形に添うようなもので
ある悪い行いをする人は、その悪い報いを受けて苦しみ、良い
行いをする人は、その良い報いを受けて楽しむ この心が濁ると
、その道(自分の人生)は平らでなくなり、 その為に倒れなけれ
ばならない、また心から清らかであるならばその道は平らになり、
安らかになる。
 身体と心と清らかさを楽しむ者は、悪魔の網を破って、仏の大
地を歩む者である。心の静かな人は、安らかさを得て、ますます
努めて、夜も昼も心をおさめるであろう。

 お釈迦様の表現にある、『心が濁ると人生が平らでなくなり、倒
れる、心清らかであれば道は平らになり、安らかになる』という言
葉は、正に経営の場でも同じであります。
 そういう意味で私は「心を高める」と言っているのです。心を高め
るということは、心を良き方向に高める、心を美しくしていくという意
味であります。

実は、私も仏法者です。釈尊の教えは十分理解しています。

2008年06月11日

《 心を高める 》

稲盛塾長の講話です。

「心を高める」とありますが、まず心ということについてお話し
ます。
私が作った方程式、
人生の結果・仕事の結果=【能力×熱意×考え方】
と言う物がありますが、【考え方】とは、心が作り出したもの
で、心と同一です。【熱意】というものも心の所産でありますか
ら、先ほどの方程式で能力の他に【心】というものが大変大事
なのだと常に言っているわけです。
「心を高める」とはどういうことなのか?冒頭から本質論になっ
てしまいますが、企業経営をしていく上で、心というものが一番
大事だと私は思ってきました。

私は元々理工系で、化学が専門の技術屋であり、本来ですと、
技術・科学・サイエンスというものが大事だと思うものですが、
私は若い頃から、なぜからしら、心というものが人生にとって、
人類にとって大事ではないかと思い続けてまいりました。
その為、私の話の中では、全てと言っていいほど、心というもの
が大きな問題として取り上げられております。
先日、山口大学創立50周年記念の特別講演を頼まれ、講演
をしてまいりましたけれども、その時は、人生の意義について
お話しして来ました。
人は一個の人間として生を受けて生まれ出て、その人の人生
の目的、意義とは何だろうと私は特にここ数カ月考え続けてま
いりました。
いろいろ考えた結果「心を高める」ことが人生の意義だという結
論に達しました。  
-心を高める、心を純化する、美しい心を作り上げることが人生
の目的なのです。
では、結論としてなぜ心を高めることが人生の目的であり、意義
なのか。そのことは改めてまとめてお話ししたいと思います。

2008年06月10日

物心両面の幸せを得るための行動指針:京セラフィロソフィ

稲盛塾長の講話からで